1/23 陸奥国分寺・尼寺跡の歴史~発掘調査の成果~

今日の学習講師は、仙台市教育局文化財課専門員 斎野裕彦先生です。

1.国分寺・国分尼寺の概要

国分寺・国分尼寺の創建は、天平13年(741)に、聖武天皇が仏教によって国家を治めていくために、60ヶ国ほどあった国ごとに七重塔を一基造り僧寺と尼寺を設けるよう詔を発したことに始まります。

2.国分寺・国分尼寺の役割と運営

(1)役割:仏教行事の実施、疫病・飢饉・外敵から国家を擁護する、法華経によって罪の表れの『疫痩』を除滅する。


(2)運営:国師による仏教政策の統括 国分寺・尼寺の僧の数・・・国分寺:20名 国分尼寺:10名


(3)財源:国分寺・・。食封として封戸として50戸(1000人)、水田10町 国分尼寺:水田10町

3.貞観11年(869)5月26日の被害の実態と発掘調査で分かったこと 

(1)「日本三代実録」に地震と津波による被害が記載されている。

(2)地中に残された災害狼跡調査の結果

地震による多賀城の建物被害は少なく、地割れ跡は確認されてなく、津波は、堆積物が現海岸線から2.5~2.7kmまで分布(当時の海岸線から1.5~1.7km)しており、被害は沿岸部に限定的である。

(3)被害の実態「日本三代実録」の記録は、被害を過大視していると考えられる。

4.貞観震災からの陸奥国分寺・国分尼寺の復興


(1)復興瓦の生産と瓦の葺き替え・・・台原・小田原窯跡群では、窯跡が11遺跡、この時期の瓦は、行程を単純化して迅速に生産。8km離れた多賀城からも供給された。

(2)陸奥国分寺・国分尼寺の復興

 両遺跡から復興瓦が出土、陸奥国分寺では、軒丸瓦と軒平瓦が多く出土、復興瓦による葺き替えはの主体は七重塔と考えられ、出土した軒平瓦顎面に赤色顔料が認められ、七重塔には色彩が施され、七重塔が修理されていく様子が遠くから見え復興のシンボルとなっていたと考えられる。

 

(3)薬師堂東遺跡の調査結果

復興のための工房 鋳造関連遺構群・・・国分寺の復興のために金属製品を生産する工房が作られた。鋳造、金属加工等が行われていた。
梵鐘鋳造遺構・・・遺構群のひとつに、一辺2m四方の穴を掘って、円形の底型を造った遺構が一基見つかり、梵鐘を鋳造した狼跡で有ることが分かり梵鐘の大きさは、高さ110~115㎝、口径65㎝と推定。その音色は平野に広く響き、復興の支えになったと考えられる。

5.陸奥国分寺・尼寺跡の史跡の整備

平成24年度に『史跡陸奥国分寺・尼寺跡整備基本計画』が策定され、今回の整備では、史跡地が新たな学びと憩の場となるよう、ガイダンス施設、南辺築地跡、大遺構の遺構標示、園路、緑地広場を整備。また、奈良時代の雰囲気を感じられる『天平回廊』です。南大門の北側には中門と金堂をつなぐ回廊がありました。天平回廊はこの廻廊跡の発掘調査成果をもとに、伝統工法と現代工法を融合させた建築物です。

6.史跡陸奥国分寺・尼寺跡ガイダンス施設・・・・東西線薬師堂駅そば。今日の学習の復習として見学されては如何でしょう。