講演する七海雅人教授

鹿落坂からみた仙台市街の風景

 

 

 

 

 

 

 

今日の学習会は「鎌倉・南北朝時代の仙台~知られざる中世の歴史~」と題して、東北学院大学文学部歴史学科教授の七海雅人先生からお話がありました。仙台出身の先生は一時期を除き、ほとんど仙台駅2Km圏内で過ごしたそうで現在も太白区在住との紹介を受けました。いつものA4用紙6枚の資料でなく、カラー版で12枚を自ら持参し、気合十分の講義でした。

岩切から塩釜にかけてが中世の多賀国府

多賀国府周辺の主な遺跡分布

鎌倉・南北朝期の多賀国府

 

 

 

 

 

 

 

はじめに、伊達政宗以前の仙台周辺の歴史を振り返り、宮城野区岩切から塩釜にかけて、中世の多賀国府が広がっており、幹線道路の「奥大道」(福島県白河~青森県の津軽外ヶ浜)と冠川(現在の七北田川。七ヶ浜町の湊浜が河口であった)が交差する一帯には市場や町場が賑わっていたことを紹介。

平泉とも密接な関係があった

1285年の古文書、この地方の豪族、留守文書では留守家広譲状の中で、子息家政宛ての文書の中で留守氏惣領へ金3両の遺言状が残されている。次に、冠川南側の領主陸奥介と平泉藤原氏の関係について、八幡の庄(多賀城市~宮城野区高砂)の中の中野高柳遺跡から出土したクツワ((馬の口に含ませる金具)が平泉で制作された可能性が高く、密接な関係があったことが推測される、とのことでした。

1351年の古文書 相馬文書 陸奥国宣

現在の七北田川から見た東光寺周辺

 

 

 

 

 

 

 

京都朝廷から派遣された役人

鎌倉幕府の陸奥国の支配体制では京都朝廷の下級武士井沢家景を多賀国府へ派遣し、「留守」を名乗るようになったこと。その後の南北朝時代には岩切城合戦から多賀国府の終焉まで古文書をもとに、丁寧に説明。留守氏の一族余目氏と伊達氏九世伊達政宗(戦国時代の伊達政宗は17代当主)が結んだ一揆契状などにより、伊達氏の勢力が仙台にも及んできたことなどをお話しくださいました。中身が濃く、もうちょっと聞きたいところで、先生の一言は「ちょうど時間となりました」で締めていただきました。

本日の出席者は607名でした。