1/22 仙台城丸わかり~伊達な地政学~
本日の学習会は、「仙台城丸わかり~伊達な地政学~」として、放送大学宮城センター非常勤講師・元仙台市富沢遺跡保存館館長金森安孝先生から、政宗の時代は戦国時代の終焉・仙台の地をなぜ選んだか・仙台城発掘調査の成果と復元整備等について地政学の見地から講演いただきました。
講師紹介
放送大学宮城センター非常勤講師・元仙台市富沢遺跡保存館館長 金森安孝先生
昭和27年 仙台市生まれ 南鍛冶町、花壇育ち
東北大学で日本近世史専攻
仙台市役所入庁
文化財専門職として「陸奥国分寺跡」「郡山遺跡」を発掘調査
阪神淡路大震災の復興支援に兵庫県に派遣
仙台城跡石垣修復工事と並行する発掘調査、国史跡指定を担当
仙台市博物館を定年退職し地底の森ミュージアムに
現職 放送大学宮城学習センターで城と城下町の話等で講義
本日の講演内容
1.政宗の時代は、戦国時代の終焉
1-1 伊達家の戦略
⑴本拠地の変遷
①梁川城(伊達氏梁川町)茶臼山東尾根 平山城ー本丸に庭園・池 居館中心に方形地割の城下町
鎌倉幕府御家人の常陸入道念西(伊達朝宗)が奥州合戦に参陣、恩賞として伊達郡の地頭職の本拠地とし、伊達稙宗(政宗の高祖父)が段銭・棟別銭の体制強化を図り、大永2年(1522年)陸奥守護職補佐となり、奥州探題職大崎氏に拮抗していた。
②桑折西山城(桑折町)山城ー高舘・中舘・西舘を中心とした曲輪構成
天文元年(1532年)伊達稙宗が婚姻外交と領土構想で居城とし、天文5年(1536年)分国法で統治機能の拡充を図った。天文11年(1542年)~上杉氏入嗣問題で伊達稙宗と晴宗との間に天文の乱が発生した。
③米沢城(米沢市)曲輪式平城ー米沢盆地、政宗誕生地
伊達晴宗が本拠を米沢に移し、永禄5年(1567年)伊達輝宗( 伊達家16代)と奥州探題・最上義守の娘・正室義姫(義光の妹)の嫡男として伊達政宗が誕生した。
- 梁川城
- 西山城
- 米沢城
⑵「一字拝領」偏諱(へんき)を賜る
伊達家の「宗」は通字・系字(正統性)、足利将軍家から「一字」偏諱、豊臣家・徳川家から”羽柴””松平”「姓」の拝領、偏諱の「秀」「忠」「光」~「綱」「吉」を賜っている。
1. 1-2 信長から秀吉、天下統一の動き
⑴戦国武将
①織田信長ー畿内を中心に独自の中央政権を確立し天下人になった。伊達輝宗は、その信長に天正3年(1575年)鷹を贈り、北条氏政との対抗する軍事同盟を結んでいる。
②豊臣秀吉ー本能寺の変後、山崎の戦いで明智光秀を破り、織田政権の主導権争いに勝利、豊臣政権を確立した。朝廷の権威を背景に惣無事令を各地の戦国大名に発し、北条氏を破り奥州仕置で天下統一を成し遂げた。
③北条氏直ー相模国の小田原城主で後北条氏の第5代当主。徳川家康と同盟を結んだ後、下野・常陸方面に侵攻して勢力を拡大し、240万石に及ぶ後北条氏の最大版図を築き上げた。真田昌幸支城・名胡桃城奪取事件が起き、惣無事令違反であるとして、秀吉による小田原征伐を招き、天正18年7月に降伏、後北条氏の関東支配は終焉を迎えた。
④徳川家康ー秀吉死後、関ヶ原の戦い、大坂城の戦い後、江戸幕府を開き征夷大将軍となった。
⑤伊達政宗:永禄10年(1567年)~寛永13年(1636年)ー天正17年(1589年)会津蘆名義弘を摺上原の戦いで滅し、米沢城から会津黒川城に本拠を移し所領114万石に、天正18年、秀吉の奥州仕置、翌年の葛西大崎一揆平定後小田原遅参の咎を受け、米沢72万石から岩出山58万石に減転封、関ヶ原合前に、北目城において100万石を拝領約束され仙台藩初代藩主となった。
また、五郎八姫と忠輝の婚姻、関ヶ原の戦を終えての仙台城「山城」と「仙台屋敷」若林城造営、街道・河川改修の領内整備、松島五大堂・円福寺・塩竃神社・陸奥国分寺等の再興(旧権力の象徴である主要建築物の復興整備)・大崎八幡宮、慶長遣欧使節派遣(海外交易)を徳川幕府の後ろ盾(中納言「黄門」・「副将軍」)で行なった。
2.政宗は、なぜ仙台の地を選んだのか
政宗は、上杉氏への対抗における交通の要衝、岩出山城の状況(大崎氏旧領の混乱・領国内での北への片寄り・江合川の氾濫と治水・城下家臣屋敷地の狭溢さ・街道整備(宿駅・伝馬)等で困難なことなどから、防御と緊急性から山城「千代城」を改修を行った。
3.発掘調査の成果
仙台市教育委員会が平成9年(1997年)から実施した「本丸北東部の石垣解体修復工事に伴う発掘調査」が端緒となり、その後種々発掘調査がなされた。
- 若林城
- 松島瑞巌寺
本日の出席者は554名でした。