11/17 平塚らいてうと与謝野晶子の婦人解放運動について

 本日の講師は,吉野作蔵記念館、企画研究主任 小嶋 翔先生です。『平塚らいてうと与謝野晶子の婦人解放運動について』、サブテーマ「女性の政治参加と自由/公共の福祉ー与謝野晶子と平塚らいてうの論争を読む」と題し母性保護論争等について講演をいただきました。

講師紹介
吉野作造記念館 企画研究主任 小嶋 翔(コジマ ショウ)先生

・平成20年 東北大学文学部卒業
・平成26年 東北大学大学院文学研究科 博士課程修了
博士(文学)
・平成25年~現在 吉野作造記念館 主任研究員
・令和2年~現在 東北大学資料館 協力研究員

1.はじめに
日本の近代史と女性の政治的権利

1)これは何のランキングでしょう?

 上図のランキングは、世界各国の下院(日本:衆議院)で占める女性議員のパーセンテージ。日本は、165位10.2%にとどまり非常に低い割合となっている。(2021年1月~9月調査)

2)選挙権の推移

・1889年(明治22年)日本で選挙制度が実現。ただし、有権者人口は全体の約1.1%にとどまった。
・1925年(大正14年)納税額の制限が無くなり、有権者が大幅に増える。しかし、選挙権を持つのは男性のみで、「婦人選挙」を求める運動が起こった。

有権者の資格と数

3)改正治安警察法(1922年・大正11年)※最初の公布・施行は1900年(明治33年)
 新婦人協会(平塚らいてうの呼びかけにより、婦人の社会的・政治的地位の向上を目指して1920年に発会した市民的婦人団体。平塚、市川房枝、奥むめおが理事を務めた。)の活動により、治安警察法第5条第2項から「女子及」が削除され、女性の政治集会への参加が可能になった。(1922年・大正11年削除)

改正治安警察法第5条

2.与謝野晶子 とはどんな人?

 浪漫主義文学雑誌『明星』で活躍し、生涯に詠んだ歌は10万首と言われる。
・1901年(明治34):堺を出て上京し与謝野寛(鉄幹)と結婚。第一歌集『みだれ髪』刊行。

・1921年(大正10):文化学院を創設
・1938年(昭和13):『新訳源氏物語』刊行。

◆浪漫主義的作風と思想 『みだれ髪』から

清水へ 祇園をよぎる 桜月夜 こよひ逢う人 みなうつくしき
ゆあみする 泉の底の 小百合花 二十の夏を うつくしと見ぬ
乳ぶさおさへ 神秘のとばり そとけりぬ ここなる花の 紅ぞ濃き

・〈性〉の作品が多く、性を宗教的なレベルまで神秘化し、世俗の「罪」かもしれないが自分には関係ない。「罪」を超越することで、人間の美しさを表現し、人間が貴重な存在であることを文学者として表現することを目指した歌人である。

3.平塚らいてう とはどんな人?

 思想家、社会運動家、女性解放運動家で「元始、女性は太陽であった」は非常に有名な作品である。
・1903年(明治36):日本女子大学に入学。
・1908年(明治41):文士森田草平と那須塩原で心中未遂事件。
・1911年(明治44):『青鞜』を創刊。「らいてう」の筆名を用いる。
・1919年(大正8) :市川房枝らと新婦人協会を設立、女性参政権運動などに取り組む。

1)「元始、女性は太陽であった。青鞜発刊に際して」(『青鞜』1巻1号、1911年)

今、私は神秘と言った。しかしともすれば言われるかの現実の上に、あるいは現実を離れて、手の先で、頭の先で、また神経によって描き出され拵えものの神秘ではない。夢ではない。私共の主観のどん底に於て、人間の深き瞑想の奥に於てのみ見られる現実そのままの神秘だと言うことを断って置く。

・「他の光によって輝く」、他人による「拵えものの神秘を生きるのではなく、「主観のどん底」まで自分がどの様に生きていくかの内省を深め、「現実そのままの神秘を生きる
・世間一般で通用している「女性らしさ」を拒否し、女性が自分らしさを自分で探求できる社会環境つくりを目指した。

4.与謝野晶子と平塚らいてうの論争①

母性保護論争(1918・大正7年)
 与謝野晶子、平塚らいてう、山川菊栄らによる、「母性保護」政策の是非をめぐる論争
1)与謝野晶子:徹底した女性の経済的独立論
「女子の徹底した独立」《婦人公論》3年3月号、1918年(大正7年3月)

今後の生活の原則としては、男も女も自分たち夫婦の物質的性格はもちろん、未来に生きるべき我が子の哺育と教育とを持続し得るだけの経済上の保障が相互の労働によって得られる確信があり、それぞれの財力が既に男女のいずれかにも蓄えられているのを待って結婚し、かつ分娩すべきものであって、たとえ男子にその経済力の保障があっても女子にまだその保障が無い間は、結婚及び分娩を避くものだと思います。

・ほとんどの女性は結婚できなくなり、現在でもこれは無理なことで、女性だけでなく、男性も保障されなければならない。誰が見ても無理なことである。

《山川菊栄からの批判》

・「与謝野氏だけの天分と精力とを与えられなかった婦人が、家事に忙殺されて他に職業をもち得ないことも許されるべき」ではないか。(母性保護と経済的独立」《婦人公論》3-9、1918年9月
・与謝野晶子は天才歌人であるがため、経済的に困ることはなく生活に追われることもなかった。

2)平塚らいてう:国家への貢献を担保にした社会保障の要求(与謝野晶子への批判)
「母性保護の主張は依頼主義か」《婦人公論》1918年(大正7年5月)

これは社会生活の安寧幸福に、国家の進歩発展に重大な関係があることでありますから、国家はこれをこれを個人の自由に放任せずみずから進んで彼等を保護し、彼等の心身の健全な発達を図ることを国家として当然なすべき義務ではないでしょうか。(中略)母を保護することは婦人一個の幸福のために必要なばかりでなく、その子供を通じて、全社会の幸福のため、全人類の将来のために必要なことなのであります。

・この論法は、半分正しく半分怖いことであり、子供を産むことは国家のためになるから国が保障しなさいとの主張である。

《与謝野晶子からの反論》
・「平塚さんは「国家」というものに多大の期待をかけておられるようですが、[中略]なぜ「国家」を多く説いて、一言も個人の尊厳と可能性とに及ばれなかったのでしょうか」(平塚さんと私の論争」 『太陽』24-7、1918年6月)

◆ 与謝野晶子と平塚らいてうの思想の傾向と母性保護に対する考え

思想の傾向と母性保護に対する考え

5.与謝野晶子と平塚らいてうの論争②

花柳病男子結婚制限問題(1920・大正9)

1)新婦人協会が「花柳病男子結婚制限」を衆議院に請願

第44帝国議会(1920年)に提出

《新婦人協会の請願に対する与謝野の批判》
「新婦人協会の請願運動」『太陽』1920年(大正9年2月)

恋愛は高く遙かに政治や、法律や、科学や、論理の彼方にあります。熱愛する一対の男女の中に健康診断書の有無が何であろうぞ。

与謝野の批判

思想の傾向・母性保護に対する考え・社会思想上の立場

6.おわりに
2人の女性知識人の論争の意義

◆国家行政の役割が大きくなる時代に
・政治が国民政治にどの程度かかわるか?何を最も重視すべきか?を本格的に争った先駆的論争。今日にも通じる本質的議論。
◆細部において、女性知識人から様々な具体的な論点を提示
・個人の私的自由として〈性〉をめぐる私的自由、同じく社会関係の多様な形式(事実婚)など、また女性の社会的権利では女性から離婚、慰謝料等を請求する権利などがあげられる。

 先生は、社会運動などを通じて議論を重ね、これらの活動により政治が動いていた。国民の利益、国家の利益を守るのは重要であるが、全ての方への平等は困難。公共の福祉と自由は対峙することが多く、与謝野晶子と平塚らいてうらの論争がそのむずかしさを教えてくれた。と結ばれ本日の講演を終了した。

※ 本日の学習会出席者数は468名でした。

《吉野作造記念館の紹介》
住所 宮城県大崎市古川福沼1-2-3   TEL 0229-23-7100

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