12/22 はしか(麻疹)の歴史《江戸時代度々大流行》

講演する佐藤大介先生

本日の先生は東北大学災害科学国際研究所准教授 佐藤大介先生です。東北大学文学部を卒業され、東北アジア研究センター助教などを経て2012年より現職。日本近代史、仙台藩の地域史が専門分野です。今回ははしか(麻疹)の歴史《江戸時代度々大流行》と題して、特に仙台藩にどのようにしてはしかが流行していったか詳細にお話しされました。新型コロナが沈静化したように見える現在、大変興味深い内容です。

まず、お話しされたのは昨年からの大学でのお話。大学に来れない人、仙台に来れない人(学生)がいる中で無人の教室でオンライン授業を行った経過を、そして、疫病で滅んだ国はない、いつかは終わる、と話されました。

1.はしかについて

麻疹ウイルスによる感染症 人から人へ感染 空気・飛沫・接触感染。感染力が極めて強く、感染により90%以上の人が発症。10~12日間を経て発熱・咳を発症。38度前後の発熱、倦怠感、咳・鼻水・くしゃみなどの上気道症状(カタル期)、発疹期にいったん体温が下がった後39度の発熱。全身へ発疹が広がりカタル症状も強くなる。合併症の無い限り7-10日には症状が回復。ただし、免疫力が下がっているため、他の感染症にかかると重症になりやすい、体力回復には1か月程度は要する。江戸時代「疱瘡は見定め、麻疹は命定め」(あばたの残る天然痘 死に至る麻疹を油断するな)

2.はしか、仙台に-文久2年(1862)7月(現1か月プラス)

はしかの流行年数

7月8日の記事から「近頃、京都や江戸で麻疹が大いに流行している由、先月中旬頃から(仙台)御城下でも、その麻疹が流行している。最初は五軒茶屋、河原町(仙台市若林区)より流行し、町を通ってきたまで転移、今月初めからは「士町」へ流行。「暑邪」(夏バテの意味か)や痢病を患っているところに、麻疹にかかり、果てる者(死亡)が所々にあるという。」「猪狩又十郎日記」(『宮城県史筆者資料』57 宮城県公文書館)

3.はしかの猛威 ー 文久3年8月

「去々月中から、麻疹が流行しているところ、去月にいたり、町方は言うに及ばず、侍町でもいよいよ流行している。痢病などの症状も出て死亡する者も相応に聞こえてくる。別して、今年は閏月があるので、身ごもっている婦人が多く、そのものが麻疹になると六・七分通り死んでしまうと聞く。麻疹は三十歳前後のものから、今年生まれたもの子どもに至るまでかかるので、家々に5人、3人くらいずつで病人のいない家はまれである。大町、国分町、南町の大店でも、番頭たちがあらまし麻疹になって商売がなりかね、五六日ぐらいずつ商売を休んでいる。」「医者も、ふだんはありあまるほどいたが、このたびは間に合わず、いかなる下手な医者でも三・四十軒の病家があり、昼夜ひまなく奔走している。よって、普段から病家をたくさん受け持っている医者は、寝食も十分でなくなり、このごろは疲れ果てていると聞く。」

4.必死の対応  文久3年8月~閏8月

「当月はじめに、御上より村々へ、祈祷をし、村中安全をいたすよう仰せ渡される。もっとも難儀におよべば、御医師も下され、薬用するようにとも仰せ渡される。村々では御祈祷があって休まらず、そのほか村々や、自分たちで祈祷・まじない、所々橋くぐりなど大いに流行。する」(丸吉皆川家日誌 個人蔵)

5.おわりに 「結果」と「影響」

9月7日、幕府・仙台藩によるはしかの病理者調べの風聞。江戸では10万人以上、仙台城下町では町人5千数百人、さむらいが1万人との風聞。9月24日遅れていた麦蒔きを行おうとすると6センチ降雪。翌年の正月「麻疹の残り者、この節所々にこれあり」

江戸時代の麻疹への対応を現在の状況への「教訓」とすべきか、どうか?「どんな人であっても平等に命を尊重する」という考えを勝ち取ってきたのが人類史である、とまとめられました。

本日の出席者は464名でした。