本日の講義は長江月鑑斎勝景について江戸時代以来形成されてきた事件のイメージは
本当に正しいのか?
様々な史料を使って事件の「真実」に迫りたいという事で竹井英文先生からご講演を頂きました。
竹井英文先生は、もともとは豊臣秀吉の天下統一までの研究をしていて、学院大に赴任してからは
ゼミ活動の一環として地域史研究を行っている。
ここ数年は深谷地域(現東松島市ほか)を調査し、現在は黒川郡(現大和町ほか)を調査。
講師紹介
竹井英文
昭和57年10月 東京都生まれ
平成17年 3月 千葉大学文学部史学科卒業
平成23年 3月 一橋大学大学院経済学研究科博士課程修了。
同 博士(経済学)
平成26年 4月 東北学院大学文学部歴史学科専任講師
令和5年4月~現在 同教授
はじめに
・長江月鑑斎勝景・・・鎌倉期以来の陸奥国深谷保(現在東松島市ほか)の領主長江氏の最後の当主。
妻は葛西晴信の姉。妹は相馬義胤の室
・天正16年(1588)1月・・・大崎合戦に伊達軍の一員として長江勝景も出陣
・同年2月・・・黒川晴氏の離反により伊達軍大敗。新沼城に籠城するも泉田重光・勝景らが人質となって開城。
ほどなく勝景は解放。重光は最上義光のもとへ送られる
(最上氏との謀反の密約があったためとされ、以後政宗に警戒される)
・天正18年秋・・奥羽仕置の際に、政宗は勝景・晴氏の身柄を拘束、米沢へ移送。
・同年12月・・この間に秋保に移送し、7~13日の間に勝景を誅殺。(深谷地域は完全に伊達領に)
⇒葛西氏残党を誅殺した「深谷の役」とともに、
伊達政宗の人生・仙台藩史の中でも謎多き重大事件の一つ
・事件の概要・イメージ⇒仙台藩関係の記録・編纂物による。
それらをもとにした名著・紫桃正隆『政宗に睨まれた二人の老将』
・・・若き政宗に抵抗する名族の『老将』として描く
※江戸時代以来形成されてきた事件のイメージは、本当に正しいのか?
さまざまな史料を使って事件の「真実」に迫りたい。
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伊達政宗と長江月鑑斎
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はじめに
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長江勝景米沢に移送
20代の政宗が60~70代の老将を処断したとされるがこの殺害事件の「真実」を探る。
三分一所家(野蒜近辺)は深谷地方で領地が丁度1/3でありその姓を名乗った。
政宗は勝景を月寒斎と呼んでいた。伊達家家臣の留守政景は30代で「雪斎」と名乗った。
1. 戦国期長江氏の系譜関係を探る
■「老将」長江月鑑斎勝景
・長江紀伊守盛景の嫡男が播磨守勝景、次男が筑前守景重、三男が左衛門尉家景とされる。
この三兄弟によって深谷地域が分割され、景重は谷本家を、家景は三分一所家を興したとされている。
・天正19年(1591)誅殺時の長江勝景・・・紫桃氏は「老将」と表現。江戸時代以来、入道して「月鑑斎」
を名乗ったとされている。景重も入道して「露印」を名乗ったという。
・勝景の妻、葛西晴信の姉=葛西晴胤の娘。これまで晴信は1534年生まれとされてきたため、
紫桃氏は勝景の成年を1520年頃ではないかと推定。つまり、誅殺時には70歳ほどになるので「老将」と表現。
・家景の娘(実は三兄弟の妹の可能性大)は、相馬義胤の妻「深谷御前」・「おきた御方」
・元亀年間(1570年頃)、勝景と景重が争い、景重は滅亡したとされる。家景は、長江氏滅亡後に政宗に仕え、
渡辺讃岐守と改名。以後、三分一所家は仙台藩士として存続
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戦国長江氏の系譜
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葛西・相馬氏との血縁
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深谷保の範囲
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年代比較図-1
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年代比較図-2
2.伊達政宗と長江月鑑斎勝景 ① -政宗の小田原出陣までー
■大崎合戦と長江勝景
・天正15年(1587年)後半、大崎家の当主・大崎義隆と、執事(家老)の氏家吉継の争いが勃発。
義継が政宗に救援を願い出たことから、翌年正月に政宗は留守政景・泉田重光を両将とし、
長江勝景らとともに大軍を派遣
・2月、黒川郡の黒川晴氏が大崎義隆方に寝返ったことにより、伊達軍は大敗。
新沼城に籠城するも困窮し、泉田重光・長江勝景らが人質となり2月23日に開城
・その後、ほどなく勝景は釈放。重光は大崎氏から最上氏のもとへ送られ、以後しばらく
返還交渉が行われ、7月21日に釈放。
・『貞山公治家記録』などでは、最上氏に謀反を勧められ承諾したため釈放されあたとある
また、大崎合戦時も空鉄砲を撃っていたともする。さらに、伊達氏と敵対関係にあった相馬氏と
婚姻関係にあったことから、謀反の疑いは明白、という論調。
⇒激怒した政宗は、以後ずっと勝景を警戒。天正19年に勝景を誅殺というストーリー。
本当にそれでよいのか?
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奥州の竜・伊達政宗
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誅殺されたのは37歳
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天正19年は1591年で勝景は37歳
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釈放直後の辞令
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釈放後の政宗との関係
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留守・黒川氏と長江氏の明暗
3.伊達政宗と長江月鑑斎勝景 ②
■命運別れた黒川晴氏と長江勝景
・天正18年(1590)7月、豊臣秀吉により小田原城が落城、秀吉は会津黒川城まで出陣。
奥羽仕置を実施。
伊達政宗を始めとした奥羽諸領主は豊臣大名化、または大名として認められず改易処分に
・伊達氏関係では、留守政景・黒川晴氏・長江勝景らが独立を認められず改易処分に。
このうち、黒川晴氏と長江勝景は7~9月の間に政宗に身体を拘束され、米沢に移送される。
一方の晴氏は、娘婿である留守政景の懇願により除名され、伊達氏家臣として生き残ることに
・天正19年7月7日伊達九郎鉄斎宛の書状によれば
長江と黒川の二人に「横目」=監視役をつけろと命令し
政宗の方針に従えば許すが拒否したら切腹させるとの命令であった。
「御地行被下置候御帳」によれば家臣団の知行地が1/3になった。実質厳封の上、
大量の家臣団を抱える政宗の厳しい懐事情がうかがえる。
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大量の家臣団を抱える政宗の懐事情
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転封を渋る亘理重宗と受け入れた留守政景
おわりに
・長江月鑑斎勝景の誅殺事件とは、何だったのか?
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長江月鑑斎勝景の誅殺事件とは?
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政宗の懐事情による誅殺
本日の出席者は 510 名でした