2/12 仙台藩は賊軍に非ず 西郷隆盛と戊辰戦争

 仙台郷土研究会 役員 木村 紀夫先生をお招きし「仙台藩は賊軍に非ず 西郷隆盛と戊辰戦争」と題して、歴史への探求は道半ばであるが、戊辰戦争の真の姿を「仙台藩が賊軍、朝敵に非ず」との立場で、正しい歴史を学び、先人の思いを馳せて明日に生かしてほしいとご講演をしていただきました。

講師紹介

仙台市郷土研究会役員
郷土史家 木村 紀夫(キムラ ノリオ)先生

仙台市北目町生まれ
石巻商業高等学校卒業
元住友生命

ナゼ260年もの国是を破り開国したのか(・・?-

260年余り鎖国政策をとってきた江戸政府は、1853年ペリーの来航をきっかけに開国へ向かう。日本は列強の侵略の恐怖にさらされており、幕府老中阿部正弘は列強の侵略を防ぐため、日本を近代化して国防力をつけようとした。無謀な攘夷戦争を回避するため交渉を重ね、開国やむなしの合意を積み上げ、早急に国力の充実を図り西洋列強に対応すべきと建言し、鎖国政策を解消した。阿部正弘は百数十名の西欧留学生を送って西欧文化や法制度・造船技術・金属加工などの先進技術を学ばせるなど、近代化への実現に取組んでいった。幕府の断行した開国は、日本の新しい夜明けとなった。

ナゼ戊辰戦争に 公武合体をめぐる、15年間の主導権争い

 これまで政治の発言権を持たなかった親藩・外様の有力大名などの活動が活発になる。江戸幕府の権威は低下の一途をたどって、幕府を倒して天皇中心の政治に戻そうという機運(尊王論)が高まる。そこで幕府は再び権威を回復させるため公武合体政策を推進した。しかし、朝廷をめぐる幕府と長州藩の政治の主導権争いは、この後一層激しくなっていき、西郷隆盛や大久保利通らが倒幕へと舵を切っていった。諸藩を統制できなくなりつつあった幕府は、1867年大政奉還を行い政権返上した。その2月後に王政復古の大号令が発せられ明治新政府が発足。翌年1月、徳川慶喜の処遇に不満の旧幕府軍が新政権軍と京都で衝突、「鳥羽・伏見の戦い」が起り、西郷隆盛と勝海舟との会談により、無血開城が実現した。

 

会津藩が朝敵に

1月17日朝令下る「仙台一藩で会津を征伐せよ」

1868年新政府から挑発された旧幕府側は「討薩の表」を天皇に奉じるため、幕府軍、会津、桑名藩などー万の兵が大坂から京都に向かった。鳥羽・伏見の関門で待ち構えていた薩長軍5千余兵が発砲し戦闘が始まる。当初互角の戦いであったが、偽造した錦旗など天皇の権威を利用して薩長軍は朝廷の軍・官軍となったので、徳川慶喜は戦意を失い江戸へ逃亡し旧幕軍は敗退した。新政府の実権を握った薩長は徳川家と会津藩を朝敵として、西郷隆盛ら率いる征討軍が関東方面で武力討伐戦を強行し、4月11日には江戸城を接収し、265年間戦争のない平和と豊かさを誇ってきた江戸幕府を壊滅させた。

 

仙台藩の和平工作

 会津藩を仙台一藩で征討するよう藩主伊達慶邦宛の朝命を受けた。しかし京都守護職として5年間も朝廷を守り、孝明天皇の信頼厚かった会津藩に朝敵とされる理由はなく、慶邦は薩長の恨みによる私怨戦であり、征討戦は大義がないとして、会津藩を救うために自ら和平工作に立ち上がった。仙台藩は、和平交渉を粘り強く進める一方、肥後・肥前・加賀など雄藩と連合を協議するなどして、奥羽での戦争を避ける努力を重ねた。

奥羽の大義、奥州越列藩同盟

 問答無用で会津藩を討とうとする新政府軍に対抗して、仙台藩は天皇による政権実現のため薩長を排除し、会津藩と奥羽の平和を守る、天皇を政権争いに巻き込んではならずとの信念を持っており、東北諸藩は奥羽藩同盟を結び新政府軍と戦うことになる。会津藩主がひたすら恭順し、仙台、米沢藩主など奥羽諸藩が誠意を尽くして和平の努力をしても一顧だされず、決戦は避けられないものとなっていた。閏4月11日の「白石会議」で、会津救済の歎願書が認められない時は征討軍と戦うことを決し、奥羽と北越の31藩は「奥羽越列藩同盟」を結成し、大義のため防衛戦争へと立ち上がった。

西郷隆盛は、ほんとうに “ いい人 ”だったのか ?

 

奥羽越列藩の敗因と戊辰之役殉難藩士「弔魂碑」建立

おわりに

 先生は新政府軍と対立した奥羽越列藩同盟の中心的役割を担うも敗北し、歴史上「賊軍」の汚名を着せられた仙台藩だが、戦いの目的を明確にして国のため大義のために戦ったのだから、戦いに敗れたからと言って何ら恥じることはない。「仙台藩は賊軍に非ず」と強調されました。歴史の陰に埋もれた仙台藩士の苦悩とその真相など、「普通の歴史書には載っていない東北における戊辰戦争の実態」を地道な資料と分析で詳しく話して頂き、興味深く拝聴しました。

    *本日の出席者は570名でした。