2/8 仙台の和菓子
10回目の学習は「仙台の和菓子」と題して、東北民俗の会会長の佐藤敏悦先生に講演いただきました。
講師紹介
宮城県石巻市出身 法政大学卒 東北放送報道部長・局長・取締役歴任、宮城食育アドバイザー・東北民俗の会会長
主な著書「仙台藩の食文化」「ふるさとの駄菓子」
仙台藩と茶の栽培 茶道・茶菓子
今日のお話は今ある和菓子「萩の月」や「支倉焼」など手に入るものでなく、今は食べられないお菓子の話です、と紹介。そして仙台の話は伊達輝宗から家督を継いだ政宗の話から始まりました。その中に「正月仕置之事」(1584年)正月二日に「かいそめ」(初売りでの買い物、茶は切手で1年分を購入契約をした)正月四日に「ちやのひきそめ」(茶の葉を挽いて抹茶を初めて作る)が掲載されている。また、七北田洞雲寺や富谷などで茶が栽培されていたこともお話しされました。
四代藩主伊達綱村は黄檗宗(おうばくしゅう)を仙台に招き、菩提寺となる大年寺や桃源院の寺院を創建。開祖隠元(いんげん)が煎茶を伝え、その僧侶月海元昭 売茶翁(ばいさおう1675-1763)が仙台に4年間滞在して、煎茶道を教えた。
伊達政宗自筆献立の中に、食事の献立以外に「ちやうけ(茶請け、茶菓子)蜜漬けの栗 甘く味付けした里芋などがある。この中の蜜漬けの栗は室町時代からあり、今でいえばマロングラッセ、との説明。
1813年仙台藩に多額の資金を融通していた大阪の豪商升屋平右衛門が伊達斉宗(18代)へあいさつに訪れた際に出された茶と菓子 薄茶 よふかん(羊羹)葛まんちう(葛でくるんで蒸した饅頭)紅白唐花餅(表面に唐花の模様を押したか焼き付けた紅白の餅)
藩政期から明治期の仙台の和菓子
「和菓子」は「洋菓子」の対語で明治以降の用語。日本の菓子は奈良・平安期に中国から伝わった「唐菓子」(さくべい、かりんと)、室町期に西洋から伝わった「南蛮菓子」(カステラなど)などを取り入れて、茶の湯とともに進化し、江戸時代に完成した。
仙台の和菓子は米、麦、豆、砂糖などを材料とし、藩政時代から上菓子、雑菓子、餅屋、煎餅屋などがあった。雑菓子には飴、落雁、打物、練り物などあり、これらが「仙台駄菓子」と呼ばれるようになったのは昭和30年以降。
藩政期には仙台藩の御用司となった「明石屋」「玉屋」の他、「玉澤」などが人気を集めたが、幕末の戊辰戦争で賊軍となった仙台藩が領地の半分以上を取り上げられ石高も62万石から28万石に減封され、明治維新で武士階級が没落する中、倒産や廃業となった。塩瀬饅頭は幻の味になった。
駄菓子の聖地としての仙台
平成27年(2015)1月14日を最後に仙台の大崎八幡宮の「どんと祭」の風物詩、駄菓子の露店がなくなり縁起物「鳩パン」や「ねじりおこし」が姿を消す。仙台の駄菓子は明治期に12軒あったが現在では3軒。江戸時代元禄8年(1695)創業の青葉区木町通の「熊谷屋」若林区舟丁の明治18年(1885)創業の「石橋屋」宮城野区小田原の昭和10年(1935)創業の「日立屋」で。50種類以上のレシピがある。
仙台駄菓子の聖地巡礼
仙台には駄菓子の聖地を象徴する日本にここだけの「駄菓子資料館」がある。全国各地の駄菓子を訪ね歩いた石橋幸作が飴細工で鍛えた技を紙粘土に替えて制作。しだれさくらとともに資料館をぜひ見に行ってほしい。武家社会に残った料理文化はないが、庶民に残されたものが実感できる。そのことが仙台の町を理解することになるのではないか、とまとめられました。
本日の出席者は494名でした。