2022/9/7 仙台藩伊達家の奥向と奥女中

3月の地震被害の復旧工事が終了した太白区楽楽楽ホールにて、半年ぶりに今年度の第1回学習会を再開しました。
冒頭に宮崎芳憲新運営委員長の挨拶、引き続いて東北学院大学文学部教授の菊池慶子先生から、仙台藩伊達家の奥向(おくむき)で政治を支えた女性達の役割と活躍について、エピソードも交えながら紹介いただきました。

講師紹介

講演中の菊池先生


東北学院大学文学部歴史学科 教授

 菊池 慶子(キクチ ケイコ)先生

【研究分野】
日本近世史・女性史など

【主な著書】
『近世の女性相続と介護』
『江戸時代の老いと看取り』
『「杜の都・仙台」の原風景』
『仙台藩の海岸林と村の暮らし』

1.武家屋敷の表向と奥向(江戸城の構造)

江戸城本丸は、『表向』に大名達が政務を行う「表」と将軍の居所「奥」、『奥向(大奥)』は将軍の正室(御台所)の居所「御殿向」、奥女中が住む「長局」、大奥の管理・護衛役の男性が控える「広敷」から構成されていた。

天保年間の江戸城内では奥女中が約900人、「部屋方(奥女中の世話係)」を加えると2500人もの女性が奉公。
各大名の江戸屋敷でも奥女中が必要で、江戸の奥女中需要は少なくとも2万~3万人に昇り、江戸の総人口の2~3%にも相当。

2.伊達家の奥向と正室・側室の役割

伊達家江戸上屋敷は、『表向』で藩主と表向男性家臣が政務を行い、『奥向(奥方)』は正室の居所「御殿向」、奥女中が住む「長局」、奥向男性家臣の詰所「広敷」で構成されていた。仙臺城の『奥向』は「中奥」と称し、側室と奥女中が居住した。

伊達家は、正妻・側室の努力で政宗の血筋を13代へと繋げた。【例:7代重村正室の観心院は、8代斉村の急逝後の相続危機に際して主導・指揮権を行使し伊達家を守ったが、これは奥に居ながら表の政治を知っていたから可能だった】

正室の日常は忙しい。「家内」と「家外」の任務、家臣との主従関係を確認する政治儀礼などが盛り沢山。
正室・側室の重要任務は藩主に対する初期教育の実施。藩主としての心得を諭し、気になる事は手紙などでも戒めた。【例:重村側室正操院による孫10代斉宗の教育】
伊達家では嫡子生母側室の墓が正室墓所の近くに並ぶが、これは他藩ではみられない。

3.奥女中の職制と仕事

奥女中には系列と階層があり、そのトップは「老女」。奥女中は家を出て個人として仕え、自分の才覚で上に昇がる。目標は「老女」。伊達家では採用後まず1週間下働きをさせ才覚をみたという。
奥女中には新たな名前が与えられる。【例:田村藩の「分限帳」には奥女中の名前・俸給・諸手当が記される】
奥女中誓詞」:奥女中は血判を押した起請文を出し、業務遂行の誓いをした。

老女の仕事:老女には何でもできる実力(経験と知識)が必要!

1.奥向で催す儀礼の指揮と対応(祝儀・年中行事など)
2.親族交際の実務(冠婚葬祭・文通・贈り物準備など)
3.江戸城大奥への使者「御城使(おしろづかい)」
・大奥の年中行事に際しての使者任務(奥女中のチーム体制で対応)
御城使の隊列は、芝口の伊達家上屋敷から平川門まで約10km、礼装が必要!

4.奥女中にはじまる藩士家

伊達家の奥女中の功績者には、養子を擁立し家を立ててもらう者もあった。【例:老女絵川→仙台藩士原家、老女喜代野→仙台藩士平井家】
伊達家での奥女中の名跡立ては政宗から13代慶邦まで続いた。

5.明治国家と女性

明治時代になると女性は任官の対象外になり(例外は朝廷女官の宮内省採用)、旧大名家に住み込みの家事使用人として残る者もいたが、元奥女中たちには厳しい状況になった。
伊達家の場合、元下屋敷の『奥』(品川伯爵東京本邸の奥)に「老女」という役割の女性がいて、来客の取次ぎなどをしていた記録がある。

●奥女中を始祖とする家臣家の存在や、近代の公務員への女性の登場など、女性の視点をもつことにより歴史研究に新たな課題が浮かび上がる。皆さんには、先祖のことを調べる際は父方と母方の双方で確認をしていただきたいと思います。

*本日の出席者は502名でした