3/12 戦国日本を世界史から読み直す

16世紀以来ヨーロッパ列強がアジア征服を展開するなか、なぜ秀吉は朝鮮に出兵したか、日本が植民地化されなかった理由、政宗の慶長遣欧使節の狙い、家康が鎖国を行った背景など、戦国日本を世界史的な観点からどう捉えるかをサン・ファン館館長の平川新先生に講演いただきました。

講師紹介

東北大学名誉教授
宮城県慶長使節船ミュージアム館長
平 川 新(ひらかわ あらた)先生

昭和25年 福岡県生まれ
東北大学大学院文学研究科修士課程修了
東北大学教授、東北アジア研究センター長、災害科学国際研究所所長、宮城学院女子大学学長を経て現職

「仙台城大手門 復元を生かして『大手門通りを』作ろう!」を提唱中

■慶長使節船ミュージアムの紹介

1996年開館。3.11津波でサン・ファン号の原寸木造復元船も被災。
2024年にリニューアル・オープンし、2代目サン・ファン号(FRP製、1/4スケール)を始め、展示も100%変えたので、ぜひ来館くださいとのこと。

■なぜ「サン・ファン・バウティスタ号」と呼ぶのか

日本の史料には「黒船」・「大船」で、船名は確認できない。スペイン側の記録に‘Saint Juan Bautista’がある。

スペインの植民地では、いずれ自国の領土になるという意識で地名などをスペイン語化しており、我が「伊達の黒船」にもスペイン語の船名を付けたと思われる。ビスカイノの港湾調査報告にも、伊達領の港にスペイン語の命名がされている。

■戦国時代、ヨーロッパ列強の日本接近

大航海時代(15~17世紀)、ポルトガル・スペインの日本征服論は「支配下においた日本の大名や信徒を中国征服の軍事力として動員する」というとんでもない計画。
秀吉は、キリスト教改宗を手段にした野望に激怒しバテレン追放令を発布。

■なぜ秀吉は朝鮮に出兵したのか?

*従来の解釈:秀吉の狂気・耄碌・誇大妄想と天下統一後の海外領土の獲得のため。
*平川先生の解釈:出兵の主因は、ポルトガル・スペイン勢力の世界侵略に対する怒り、天下統一後の強い軍事力を背景とした西洋最強の大国に対する強烈な対抗意識、そして東アジア征服の野望から。決して耄碌したからではない。

■朝鮮出兵の効果と影響力

スペイン・ポルトガルは日本征服の方針を「布教+武力征服」から「布教によるキリスト教化での日本支配」へと転換。イギリス・オランダは日本の軍事力を認め、当初から布教なしの貿易外交に徹した。
朝鮮出兵は、西洋列強による日本の植民地化を抑止する大きな効果を発揮した。

■家康と政宗の外交

家康は、スペイン・ポルトガルの布教をつうじた日本征服計画を警戒し、キリスト教の禁教令を発布。
この状況下で政宗は、スペインのマニラ~メキシコ貿易船を利用したメキシコとの貿易に挑戦するため、家康の許可をとり支倉常長を派遣した。

■慶長遣欧使節:支倉常長

1613年、スペイン国王宛の伊達政宗の親書を携え、華々しくスペイン、ローマに渡る。しかし、徳川幕府のキリスト教取締り強化に反発するスペイン国王からメキシコ貿易の許可が下りず、無念の帰国。
政宗にとってメキシコ貿易なしの布教はメリットがなく、直ちに領内に禁教令を発布した。これは、国内最後の禁教令の発布となった。

■鎖国の背景

徳川幕府が鎖国を実現できたのは、日本が臆病で弱小な国だからではなく、世界最強のスペインを日本から追放し、ヨーロッパ列強をコントロールできる軍事大国だったから。
西洋列強は徳川将軍を「皇帝」、日本を「帝国」と尊称して畏れた。幕末にペリーが持参した、将軍宛のアメリカ大統領親書にも「日本皇帝陛下」とある。

■著書の紹介(本日の講演の詳細)

 


★本日の学習会出席者は563名でした