4/23 令和7年度 第一回学習会 山形五堰の歴史

〇本日は、小幡圭祐先生をお招きして、山形五堰の誕生の歴史と、それぞれの堰の概要・おすすめスポットを紹介いただき、山形五堰や山形の魅力に触れることができました。

講師紹介

小幡圭祐 先生

小幡圭祐先生

略歴
・昭和58年 宮城県多賀城市生まれ
・平成18年3月 東北大学文学部卒業
・平成27年3月 東北大学にて博士(文学
)取得
・平成27年4月~現在
=東北大学本部事務機構教育研究支援者
・平成28年4月~現在
=日本学術振興会特別研究員(慶應義塾大学)
・令和元
月~現在
=山形大学人文社会科学部准教授
・令和6年4月~現在
=国立歴史民俗博物館特別客員准教授

はじめに

〇山形五堰とは?
=江戸時代(1624年)に山形城下(現在の山形市)に設けられた、笹堰(ささぜき)、御殿堰(ごてんぜき)、八ケ郷堰(はっかごうぜき)、宮町堰(みやまちぜき)、双月堰(そうつきぜき)の五つの堰(農業用水路
)の総称で全長115キロメートル。馬見ヶ崎川(山形蔵王インターチェンジの上流部)から一括取水され、西に向かって枝分かれを繰り返しながら市街地を流下している。市街地を網の目のように流れている堰は、全国的にも珍しく、山形市の景観の特徴であり歴史的財産となっている。
=2024年で誕生から400周年。

中央左端が山形城跡、三重の堀と土塁で囲まれた城であった。現在は霞城公園となっている。

1. 山形五堰の誕生

=山形町(山形城下)は、最上義光によって建設された城下町で、最上川の舟運によって大阪・京都の市場と結ばれる商業都市として栄えた。おもに、当地方の名産で、染料として使用される最上紅花の商いで莫大な財をなした。
=また、平城の軍事的弱点を補う観点から寺社も多く配置された。
鳥居忠政(1566~1628)が山形に領地替えとなった翌年(1623)10月、5日間の大雨によって馬見ヶ崎川が大氾濫、山形城下は甚大な被害をこうむった。
=忠政は、1624年8月に
城下をを守るために、馬見ヶ崎川の流路を現在の位置に変更して堤防を築いた。そのため堤防に遮られ、これまでのように好きなところから水を引けなくなったため、住民から堰の設置願いが出された。
=馬見ヶ崎川から取水し、上流から順に①上堰(笹堰)②中堰(御殿堰)③下堰(八ケ郷堰)が造られ、三堰とは別に取水口を設けて④宮町堰⑤双月堰が造られた。

2. 各堰の紹介

①笹堰(ささぜき
=笹谷街道に沿っていたことに由来。五堰の内で最も長い47.5キロメートルで、きれいな水しか生育しないといされる梅花藻(ばいかも)が生息。

②御殿堰(ごてんぜき
=名称の由来は、馬見ヶ崎川の護岸工事と並行して城郭の改修を行い、水路の水を城濠にも導水したことから。

 ③八ケ郷堰(はっかごうぜき)
=名称の由来は、山形の西に広がる江俣、陣場、内表、陣場新田、吉野宿、鮨洗、船町、中野の8ケ村の灌漑用水として使用されたことによる。
=旧馬見ヶ崎川の流路とほぼ同じ位置を流れる。
=文翔館は、国の重要文化財(現在、山形県郷土館)

 ④宮町堰(みやまちぜき)
=1063年、源義頼・義家が前九年の役の平定の際に設けられた、鳥海月山両所宮(ちようかいがっさんりょうしょのみや)が名前の由来。

 ⑤双月堰(そうつきぜき)
=名前の由来は、灌漑地域が双月村、上山家村、下山家村、大野目村、植野村、青野村の6ケ村(1889年の町村制施行により印役村が加わる)であったことから。

 おわりに

〇山形五堰の魅力
=山形のさまざまな産業や、そば、ラーメン、料亭、芸妓などの文化の歴史を、江戸時代から変わらない水の流れとともに味わえ体感できる点。
=詳しい情報は次を参照
※「山形アーカイブ」で検索
※「山形五堰まちあるきマップ」で検索

※山形五堰を本題に、それぞれの堰にまつわる多くの興味あるお話を伺うことができました。有難うございました。

 

 ※本日の出席者数は、620名でした。