2/14 3.11を学びに変える

 本日の学習は、東日本大震災当時、中学校国語科教諭であった佐藤敏郎講師から「3.11を学びに変える」をテーマに講演をいただきました。あの日起きた震災に、子供たちはどのように立ち向かい、どのような未来を夢見たのかを佐藤先生のお言葉をお借りしお伝えします。

講師紹介
Smart Supply Vision 理事 兼 特別講師       
  佐藤 敏郎(サトウ トシロウ)先生
 1963年、石巻市生まれ、宮城教育大学卒業後、国語科教諭宮城県内の中学校に勤務。2015年3月退職。
東日本大震災時、女川第一中学校に勤務。2011年5月、俳句づくりの授業を行い、テレビ等で紹介される。
震災で当時大川小学校6年の次女を亡くす。2013年末に「小さな命の意味を考える会」を立ち上げ、全国の学校、団体等で講演活動。
 2016年「16歳の語り部」を刊行、「平成29年度 児童福祉文化賞推薦作品」を受賞。
大川伝承の会 共同代表、NPOカタリバアドバイザーの他、ラジオのパーソナリティとして活動。

⒈ 災害は日常を襲い、大災害は日常を奪う
 女川第一中学校では、卒業式の前日3月11日14時46分、3年生は帰宅し1、2年生が卒業式の準備をしており、この十数分後に地震が来るとは誰も考えていない。災害は卒業式の前の日であろうが、結婚式、お風呂中、食事中、トイレ中でも来る。人間の行事などに関係なく、地球規模で災害が起き、日常を襲う。そして、大災害は日常を奪う。今年1月1日まさかのお正月の元旦に大災害が能登半島を襲った。
東日本大震災の時、私は学校の職員室におり、ドーンと地震が起きて窓ガラスが割れ、バ、バ、バと火花が上がり停電した。避難訓練は、校内放送で行い、「ピンポンパン大きな地震が発生しました担任の先生・・・」と行っていたが停電なので使えない。当時は卒業式の引継ぎで全員がバラバラ。今まで100回以上避難訓練を行ったがガラスが落ちたり、停電になることは簡単に想像できることであった。こんな簡単なことを一回も想定していなかった。何のための避難訓練だったのか、訓練のための訓練をしていたことに問題があったのです。

⒉ 子供たちの絵
 こんな絵を描いた中学生がいました。瓦礫と化した街を子供たちが立ちつくして見ているという絵です。人の手、人形のような人らしいものも転がっています。あの時は見たくないもの、見せたくないもの、目をつぶってしまいたくなる様なことがたくさんありました。この絵の子供たちは、後ろ姿なので泣いているのか、目をつぶっているのかわかりません。よく見るとスコップを背負い手を繋いでいる。この絵は、「見たくないのはたくさんあるが一人ではない。」ことを表しております。私がここでこのようなお話ができるのはこの絵のおかげと思っています。

⒊ 俳句の授業
 震災の年5月、俳句の授業を行うことになった。
女川の町は、建物の8割が流され、10人に1人が亡くなり、このような状態を言葉にしてはいけないと思ったが、生徒たちは魔法がかかった様にすぐ鉛筆を持ち、指折り数えて言葉を探し始めた。
・「故郷を 奪わないでと 手を伸ばす」   ・「ただいまと 聞きたい声が 聞こえない」
・「みあげれば がれきの上に こいのぼり」 ・「みんなの前 笑えているかな 自分の顔」
瓦礫しか見えない女川に未来が見える、と書いた子供たちが多数いた。今は瓦礫が無くなり、道路も出来て賑わいが生まれている。この俳句は現在本になり、国語の教科書にも掲載されました。
生徒たちは、二度と同じ過ちを繰り返してはいけないと、町長と町議会議員へ津波に強い街づくりを提案、その一つが町内21か所の浜全てに石碑を立てる「いのちの石碑プロジェクト」となった。

⒋ 16歳の語り部
 震災当時5年生だった生徒たちが中学3年になった春に東松島に転勤、3人の生徒に出会う。当時中学3年生だった彼らが体験を語り始めており、もっと多くの人に聞いてもらうべきと思い、イベントを企画した。彼らが高校1年生のときに東京へ連れて行き、震災体験の話をさせたところ評判となり、16歳の彼らが小学5年生の震災体験を書いた「16歳の語り部」という本を出版した。

⒌ 大川小学校
 次女の”みずほ‘‘は小学校の卒業式でピアノを弾くことになっており何回も練習をしていた。でも残念ながら3月18日の卒業式は次女の火葬の日になりました。
私は何も知ることなく、3月11、12日は女川で中学生と共に宿泊しており、13日の午後妻と高校生の息子が何時間も掛けて女川に会いに来ました。「 ‘‘みずほ‘‘の遺体が上がったよ」と話して妻は大泣きし、私は驚きのあまり何も考えられず涙も出ませんでした。
3月14日大川小学校へ向かうも、道も橋も無くなっており、小さな船で行きました。橋のたもとには泥だらけのランドセルが山積みにされ、そのそばに泥だらけの子供たちが並べられその中に次女がいました。

(1)被災状況
 大川小学校は海から3.7㎞離れているが、北上川の橋に流木やがれきが堆積して堰き止め、一気に溢れ出た。その後、陸を遡上した津波も到達、校庭で渦を巻いた。そばにはシイタケ栽培学習で登っていた山もあった。スクールバスも待機しており無線で避難の指示が出ていた。地域の人や迎えに来た保護者は山への避難を進言。子供たちも「山に逃げようと」訴えたが校庭から動かず。避難を始めたのは津波到達の1分前の15時36分。子供たちは、裏山ではなく橋のたもとの三角地帯へ向かい被災しました。

(2) 山は命を救わない
 大川小学校のマニュアルには「近隣の空き地・公園に避難」と書いてあるが近くには空き地も公園もありませんでした。多くの学校では、津波到達のだいぶ前、あるいは津波が来なくても、念のため避難しました。
大川小学校では、命を救う方法は十分ありました。避難に十分な時間もあり、スクールバスも待機、体験学習で登った裏山へ避難することも可能でした。「山は命を守らない」動くのは山ではなく、どんな良い山でも登らないことには命を守れない。子供や住民の訴えを聞き入れ、速やかに行動さえしていれば子供たちの未来は違っていたはずです。
  ※『生徒は命、命がカバンを背負って学校へ来る、命は一つしかない。』

⒍ 「ただいま」と言おう
 当時、中学生だった長女が、津波でいつもの自分を見失ってしまった。「誰かやるだろう」「いつかやるだろう」と寄りかかっていたものが突然無くなり、バランスを崩した。一番後悔しているのは、あの日の朝、妹から洗面所で「お姉ちゃん、おはよう」と言われたが忙しいので無視したことでした。
防災は難しくありません、「ただいま」を必ず言ってください。「家に帰るまで死ぬな」ということです。
それが防災です。
 長女は大川を舞台に、震災をテーマにした映画を作りました。今いろんなところで上映されています。

おわりに

私は、子供が生まれると詩を作っていました。3人の子供に詩がありますと話し、
大川小学校で亡くなった最愛の次女に想いを込めて、自ら作詞した詩を唱歌、講演を終えられました。

《本日の学習会出席者は 524人でした》