9/13 武士をやめる人びと 武士になる人びと-仙台藩の事例から-
本日の学習は宮城教育大学大学院教授 堀田 幸義 先生をお迎えして、江戸時代の社会構造の変化が仙台藩の武士身分へも少なからずの影響を与えたという史実を通して、歴史の教科書ではふれられてこなかった武士の実像をご紹介いただきました。
講師紹介 宮城教育大学大学院教育学研究科教授 堀田 幸義 先生
略歴 東北大学文学部史学科国史専攻卒業
東北大学大学院文学研究科歴史科学専攻文学博士
(日本史専攻分野)前期・後期課程修了
日本学術振興会特別研究員(PD) 研究分野 日本史 近世武家社会史
1.近世の身分制
近世身分社会が確立したのは、近世前期豊臣秀吉による検地・刀狩り令により兵農分離がなされ、それを引き継いだ徳川政権によって身分区別の仕組みが確立された。大名家の家臣団構造は「侍・徒士・足軽以下」の3層区分となるが、仙台藩の場合は構造など他の藩とは少し異質であった。仙台藩を例として武士の実像についてふれていきたい。
2.主君を失った武士たち
豊臣秀吉は勝手な戦の禁止令を出したが、これに叛いた大名を潰した上でその領地を配下の武士に治めさせた。奥州仕置もその一例で、主君を失った数多くの浪人が輩出されたが政宗はこれらの遺臣を召し抱えていた。その中から異能の持ち主を抜擢し藩興隆の礎作りを行った。例 石巻に米蔵を建立、鷹匠など、これとは反対に武士身分を捨てて郷に入り農業の傍ら、村役人(大肝入)などに任命された者も存在した。また中には親戚筋に身を寄せた浪人も存在しており、仙台藩では士浪人と位置づけ武士扱いとした。また実業に身を転じた者たちは凡下として武士扱いはされなかった。仙台藩ではこのように主君を失った浪人たちの行く末も様々であった。
3.仙台藩の「さむらい」たち
政宗に米沢時代から付き従った町人たちは仙台では大町や立町などの御譜代町に住まいし、生業の傍ら軍役も担っていた。これらは家臣に近い直属部隊でもあった。先述の肝入衆も軍勢に加わるなど江戸前期の頃は身分制は厳密ではなかった。寛政年間(17C後半)になると身分制は厳格となった。
左の写真は仙台藩領を示しているが領内の拠点に要害が築かれ門閥藩士が配置されていた。片倉家は政宗の重臣(直臣)であるが自ら家来を抱えており、これは陪臣と呼称される。陪臣の陪臣という場合もあった。このように仙台藩ではこれらの者たちの「身分」と併せて、侍として自覚していたか否かという「意識」も複雑かつ重層的にわたっていたという特徴が認められる。
4.百姓・町人が武士になる時代
江戸中期以降は社会構造が大きく変化する時代を迎えた。端的に表現するなら重農主義から重商主義、武断政治から文治政治となり、「米」を中核としたこれまでの経済が、特産物などの商品を中核として商取引が盛んとなり、武士たちは扶持米を換金して商品を贖うようになった。これに伴い武家社会のたがも緩み始めた。この状況の中から全国的に「豪農」「豪商」が出現するようになり経済をダイナミックに動かしていく。これらの富裕層の中には献上金により侍身分を獲得する場合も見られた。
仙台藩でも事情は同じで18C後半には冥加金(献金)により苗字・帯刀を手に入れた百姓が数多く現れた。
左の写真は気仙郡大肝入の吉田家文書である。百姓は五百両(現価値約二千万円)で組士となり苗字・帯刀を許されたという記述が認められている。
これは藩によって許可されたものではなく、藩士家へ献金することで地元の武士に成り上がっていたという事例の一つである。
5.身分を失う武士たち
近世後期(18C以降)は変化の多い時代であり、藩の直臣、陪臣でも様々な事情で藩を出た人たち(出奔)、家の取り潰し(跡取り不在・公金横領などの事件発生)などにより更に多くの身分を捨てる武士たちが現れた。仙台藩の武士の半数以上が禄高100石未満(現価値で約二百数十万円)に属し、中には小金貸しや内職で生活の足しにしていた場合も見られるなど、生計を保つことの困難さが垣間見える。
歴史教科書ではあまりふれられていない武士階級の実際の姿を、本日の話を元にしてその一端を理解していただけたらと思います。
本日の参加者は495名でした。