1/20 伊達騒動を読み直す~伊達兵部の視点から~

講師 東北大学災害科学国際研究所  災害文化研究分野

    准教授 蛯名 裕一 先生                ご経歴は以下の通りです。

本日のテーマは「伊達騒動を読み直す~伊達兵部の視点~」です。

伊達騒動とは 万治元年(1660)~寛文11年(1671)まで続く仙台藩の政治的混乱。
3代藩主伊達綱宗公の強制隠居、幼君の後見人伊達兵部と原田甲斐の台頭兵部の専制と伊達安芸の幕府出訴、江戸の大老酒井忠清邸での刃傷事件。

※伊達騒動をめぐって、大槻文彦の「伊達騒動実録」明治42年(1909)や、山本周五郎の「樅の木は残った」昭和33年(1958)が紹介され、伊達兵部宗勝は、常に「逆臣」としての評価であつた。
今回は兵部の視点から伊達騒動を描くとして講義がなされた。

1.伊達騒動前夜の伊達兵部の位置

〇伊達兵部宗勝(幼名:千勝丸、通称:兵部少輔・兵部太輔)
元和7年(1621)政宗の末子として生誕、万治3年(1660)幕府より藩主亀千代の後見人を命じられる、寛文11年(1671)甲斐の刃傷事件の後、伊達騒動の責任により宗勝は土佐へ配流された。

2.伊達兵部の大名化

〇 3代藩主綱宗の強制隠居と伊達兵部の大名化
万治3年(1660)綱宗の「不行儀」=酒乱が発覚 同 8月 大老酒井忠清邸で綱宗の隠居が通達、亀千代への家督相続・伊達宗勝と田村宗良を後見として3万石を分知、寛文1年(1661)仙台藩奉行・奥山大学らと協議。伊達宗勝に一関周辺、田村宗良に岩沼周辺に文知を決定。幕府へそれぞれの領地の絵図を提出し、幕府老中が承認。

〇 平泉寺院の末寺化
一関藩の成立により、奥州藤原氏の根拠地・中尊寺が仙台藩から一関藩へ

中尊寺・毛越寺・達谷窟は本山を持たない寺であったが、寛文5年(1665)幕府は諸宗寺院法度を制定、寛文6年(1666)宗勝の働きかけで、3寺は天台宗東叡山寛永寺の末寺となる。中世以来の平泉寺院の特権を剥奪し、幕府の展開する寺院政策の中に位置づけた、幕府の政策に忠実な兵部の政治スタンスが覗える。

3.伊達騒動と伊達兵部

〇 兵部に対する批判
寛文6年(1666)里見重勝が兵部体制を批判。学問を軽視する傾向があること、家臣に依怙贔屓をすること、後見人が藩の重職を信頼せず、不仲なことを指摘。

伊達兵部の反論:学問の必要性は認識しているとしながらも、学問不要論は一部の者が言っているものであり、自分は文武の道を重んじる幕府の方針を知っている。ただし、大勢で集まって講釈や義絵御をするのは前代にもなく世の噂にもなる。私自身は学問を悪いものと思わず、息子(宗興)に学問をさせている。

〇 桃生郡・遠田郡境目論争と伊達安芸の幕府出訴
寛文5年(1665)登米郡赤生津村(登米伊達宗倫領)と遠田郡小里村(涌谷伊達宗重領)で境目論争が発生。寛文9年(1669)仙台藩から検分役人が派遣され境目を裁定。寛文10年(1670)伊達宗重が仙台藩政批判の口上書を奉行衆や後見人に提出。同11月伊達宗重は幕府国目付に口上書を提出したが「書状だけでは事情が分からないので江戸に登って証言するように」とのことで寛文11年(1671)伊達宗重、柴田朝意が出府。

〇 酒井忠清邸における刃傷事件
寛文11年(1667)3.27 幕府側から大老酒井忠清・老中稲葉正則、久世広之、土屋数直、板倉重矩、大目付・目付 仙台藩から伊達宗重(安芸)・仙台藩奉行柴田朝意、原田宗輔(甲斐)、古内義如(志摩)が出席。審問の最中に原田甲斐が抜刀し宗重を殺害。原田、柴田も酒井家家臣によりきられる。刃傷直後、老中から仙台藩邸に仙台藩存続を通達、事件は原田と安芸・柴田の喧嘩として処理された。

同 4.3 伊達宗勝・田村宗良が江戸評定所に召喚。伊達宗勝は高知藩にお預け、一関藩は改易、宗勝子(宗興)は小倉藩にお預け、田村宗良は閉門、岩沼藩は存続。同4.6 伊達綱基(亀千代)”御宥免”お咎め無し。 同6.9 原田甲斐の子息4人が切腹で幕を閉じた。

まとめとして、父政宗や大名になる以前の兵部、大名・後見人時代・宗勝の政治姿勢が述べられ 幕府の論理 〉地元の論理 中尊寺の特権廃止学問導入への慎重な姿勢が、仙台藩内部からの反対論に対しては弾圧姿勢、これが対立の激化になり、藩政の混乱を招いたのではと締めくくられた。

過去、仙台藩志会の公開講座「伊達学塾」でも伊達騒動は寛文事件として、講演に幾度か登場しましたが、~伊達兵部を中心に~ という視点での講義は無かったので、大変興味深く拝聴し、登場人物に対する歴史感を新たにしました。特に伊達兵部と原田甲斐の関係や人物像が良く分かり、これまで認識していたものとは違った観点での講義は大変有意義でした。

 本日の学習会出席者は234名でした。