2023.1/11 奥州仙台領のおくの細道-芭蕉さんの仕掛け(仙台領編)-

本日の学習は、仙台郷土研究会理事 京野 英一 先生を講師に迎え、松尾芭蕉「おくの細道」全行程のうち仙台領内に関わる記述について芭蕉自筆・野坡本(平成8年発見)や素龍本などをもとに検証を加えながら、推敲の上に推敲を重ねた俳聖松尾芭蕉の高邁な詩心について講演をいただきました。

講師紹介
仙台郷土研究会   理事 京野 英一 先生
・松島観光ボランティア「おくの細道松島海道」代表
・宮城県観光課「みやぎおもてなし大賞」受賞(平成18年)
・著書「奥州仙台領のおくの細道」(令和4年6月出版)
・宮城県を中心に各地で松尾芭蕉をテ-マとした講演会
活動をなさっておられま
す。

1.はじめに
たくさんの方々に読み継がれてきた「おくの細道」には、まだまだ解明されていない記述があります。広く知られている内容はあたかも「氷山の一角」のようです。本日の話は、その水面下にある一部を探ることにあります。このような試みを始めたきっかけは私が松島で観光ガイドのボランティアをしていたことによります。小学生からお年を召した方の団体まで松島にはさまざまな方々が風光を求めていらっしゃいます。「松島のよいところは」と尋ねられる度に、問いを発せられた方の年齢に合わせた説明を心掛けてきました。そして皆さんの多くは「なるほど」と納得なさいます。
でも本当のところは私にも分からないのです。それほどに水面の下には大きなものが隠されているのだと思います。
2.「おくの細道」の主な諸本
芭蕉は元禄2年3月27日に深川の草庵を出立し同年9月6日大垣に到着し、その間155泊約24
00kmという長旅を「おくの細道」と題した紀行文にまとめました。元禄4年に筆を起こし、その後に推敲を重ねましたが、芭蕉自筆本には79箇所の推敲の跡が貼紙として残されています。
今に伝わる主な本は次の通りです。
①「奥の細道」向井去来の草稿本
②「おくのほそ道」素龍清書・西村本
③「おくの細道」芭蕉自筆・野坡本 平成8年発見
この他におくの細道紀行の詳細な記録を書きとどめた弟子曾良による「随行日記」が昭和18年に発見され、日付の記されることが少ない「おくの細道」行程の実際を補足する大切な資料となりました。
3.素龍清書・西村本と芭蕉自筆・野坡本の比較
・「素龍本」元禄7年夏 
芭蕉が素龍に清書させ
「自筆本」元禄6年秋 5文字で「おくの細道
  たのが「おくのほそ道」(利牛筆曾良所持本)
・違う記述の例
岩沼宿る」という素龍の表記を芭蕉は認めた⇔ 「おくの細道」では「岩沼宿」とした地名
「雄島が磯は海に出でたる島」        ⇔ 「雄島が磯は海に成いでたる島」
尿前「蚤虱 馬の尿(シト)する 枕元」    ⇔ 尿前「蚤虱 馬の尿(バリ)する 枕元」
このように2つの本の間に同じ内容でも
相違点があることに関連して、芭蕉が仙台領内を記述した「名取・笠島」から「岩沼・仙台」へ至る道順の「謎」について後からふれることにします。
4.「おくの細道」の構成→俳諧連句(三十六歌仙)的構成
俳諧連句は和歌の「三十六歌仙」に倣って一の折(18句:起承に該当)、二の折(18句:転結に該当)計36句を一巻としています。また最初の句を発句(五七五)と言い、続いて脇句(七七)、さらに挙句(七七)と言います。何よりも芭蕉の文学的理想は、中国では詩聖李白、杜甫などの唐詩、日本では歌聖西行、能因法師などの和歌に求めていました。その和歌を下敷きとして滑稽の要素を取り入れた俳諧連句、そして発句を芸術的な高みにまで
引き上げたのが芭蕉の「俳句」でした。従って芭蕉の俳句は古の「和歌」を基盤に成立していることとなります。
元宮城教育大学教授「金澤規雄」先生は著作(下記写真参照)でこのように記されておられます。
「西行思慕と義経追悼の思いが『漂泊の思ひやまず』と、芭蕉の詩心を旅に誘ったのであろうか。古人の足跡を追尋することを、風流・修行とする思想は、風雅の伝統として歴史の中に息づいていた。」
さらに先生はおくの細道・仙台領内記述には11の不明な箇所があると記して
おります。
そのうちの一つ「名取・笠島」と「岩沼・仙台」について私なりの解釈を次の段でお示しいたします。

5.仙台領内記述の謎~「名取・笠島」から「岩沼・仙台」へ
芭蕉と曾良が仙台領内に入り道順からすると白石、岩沼、名取、仙台となりますが、「おくの細道」では名取が先で岩沼が後に記されています。地理的な位置からすると有り得ないことです。なぜか?
このことを明らかにした文献等はこれまで無かったように思われます。そこで私なりに調べて新たに解釈した内容をこれからお話しいたします。<以下おくの細道原文抜粋>

笠島 元禄二年五月二日 白石の城を過 笠島の郡に入れば 藤中将実方※の塚はいづくのほどならんと 人に問えば 是より遥右に見ゆる山際の里を みのわ 笠島と云 道祖神の社 かた見の薄 今にありと教ゆ 此比の五月雨に道いとあしく 身つかれ侍れば よそながら眺やりて過るに 箕輪 笠島も五月雨の折にふれたりと   笠島は いづこさ月の ぬかり道
※藤中将実方 三十六歌仙の一人藤原中将実方、光源氏のモデルとも言われる。陸奥守に任ぜられ馬上のまま笠島の道祖神を過ぎたところ落馬して命を失う。その塚を西行が訪れていた故事があった。

岩沼に宿る 元禄二年五月四日 武隈の松こそ め覚る心地はすれ 根は土際より二木にわかれて 昔の姿うしなはずとしらる (中略) 武隈の松みせ申せ遅桜 と 挙白※と云ものゝ餞別したりければ  桜より 松は二木を 三月越シ  ※挙白 蕉風門下の一人とされる。
仙台 元禄二年五月四日から八日
名取川を渡て仙台に入 あやめふく日也 (中略) 紺の染緒つけたる草鞋二足餞す さればこそ風流のしれもの 爰に至りて 其実を顕す   あやめ草 足に結ん 草鞋の緒

○おくの細道紀行は歌枕や古跡を訪ねる目的であり特に名取「笠島」と多賀城「壺の碑」に対しては格別な思いを抱いていた。然るに悲運の藤原中将実方ゆかりの笠島は五月雨によるぬかり道と化し、投宿予定の仙台まで先を急ぐ旅であったことから、やむを得ず笠島の塚詣でを断念した。その無念さが「笠島は」の俳句に込められた。
○岩沼・武隈の松と名取・笠島編の倒置について:36歌仙という連句構成意識に従って、笠島と伊達の大木戸の「五月」を「陰」のイメージとし、岩沼・武隈の松、仙台城下・あやめ草を「目の覚る心地」として、「陽」のイメージとし、陽と陰を対比した絶妙な構成を意図した。連句では季語の後戻りが禁じられており、「笈も太刀も五月に」の次に「武隈の松」を詠んだ次にまた、「笠島の五月」を詠む事は出来ない決まりなのです。【「観音開き」を禁じる決まり】
○おくの細道では時間・空間の整合性よりも心情の表現を重視したので笠島から岩沼・仙台という倒置した順序でもさほど構わなかった。それほどに笠島への思い入れが強かったことが伺われる。笠島あっての岩沼・仙台という位置づけだったのだろう。ただ、岩沼・仙台には芭蕉の旅を援助したパトロンがいたので謝意を伝えるために本作品に組み入れたと考えられる。
○結論、おくの細道とは紀行文ではなく紀行文学である。
6.さいごに

これは松島の月照を撮影した私の作品です。露光を長くすることで肉眼でとらえられる景観よりもさらに際立って美しく見えます。正月の地元紙に「アインシュタインが観た月」として海に映る松島の月を写した私の写真が掲載されました。これも同様に金色の波のゆらめきを撮りました。この美しさは肉眼ではなく心眼でとらえられるものと私は思います。芭蕉は心眼によって紀行文ではなく紀行文学を創作したと私は思っています。

本日の学習会出席者は461名でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自然

前の記事

12/21 植物の交配
歴史

次の記事

1/18 中世南奥州と京都