9/14 井上ひさしの世界

本日の講師は仙台市文学館の赤間亜生 先生です。講演に先立ち、自己紹介があり2016年に当大学で島崎藤村の講義をして以来2回目です。仙台文学館は1999年3月28日開館で開館当時のエピソード紹介から始まり1998年から2007年3月まで、井上ひさし館長の下で仕事に携わったことから井上ひさしの出自と生い立ちを説明されました。


 

講師:仙台市文学館 副館長 赤間 亜生(あき) 先生

略歴

1997年 仙台文学館準備室勤務、資料調査・収集と1993年3月の仙台文学館開館の業務に携わり現在に至る。

これまでに担当した主な展示は、1999年開館記念特別展「夏目漱石展<漱石文庫の光彩>」2000年「ことばの地平<石川啄木と寺山修司>」2004年「宮沢賢治展inセンダード」

2009年開館10周年記念特別展「井上ひさし展<吉里吉里国再発見>」など


井上ひさし
 1934年(昭和9年) 山形県小松町(現在:川西町)に生まれる。本名・厦(ひさし)

〇父・井上修吉1905年(明治38年)小松町に代々続く「井上酒造」(現:樽平酒造)の分家筋に生まれた。

井上酒造は、地主であり土地の名家。東洋陶磁器の逸品を集めた私立美術館「掬水工芸館」も運営している。東京薬学専門学校(現・東京薬科大学)卒業、薬剤師となり、帰省して薬局と文房具屋と本屋を合わせたよろず屋を経営。作家志望であり『サンデー毎日大衆文芸』コンクールの常連。左翼劇団の活動に参加、農地解放運動に関わり、父(ひさしの祖父)と激しく対立。運動では検挙もされている。

〇母・井上マス1907年(明治40年)小田原生まれ。行儀見習いに出ていた病院で修吉と出会い芝居や文学といった共通の趣味により親しくなる。1927年(昭和2年)周囲から大反対されるが修吉と結婚。

〇父・修吉の死 1939(昭和14年)脊椎カリエスにより死去、母のマス、兄の滋、ひさし、そしてまだ生まれていない三人目弟(修佑)が残された。

〇1941(昭和16年)ひさしの就学年、3月に国民学校令が発令、12月6日太平洋戦争突入、学校でのいじめ(母・マスの戦争・時局に対する批判)

〇父なき後の井上家~波乱と離散。母子家庭の苦しさ、マスへの風当たりの強さ、1940(昭和15年)マス薬剤師の資格取得するも1942(昭和17年)企業整備令により薬局は廃業。

〇少年ひさしの愉しみ(本と映画と野球)小松町唯一の娯楽施設「こまつ座」に通い新制中学進学後は米沢の映画館で3年間で600本位の映画を見る。

〇母の成功と失敗。成功は美容室兼女性向け衣料品販売で利益の地域還元として興行を実施、流しの浪曲師と結婚。失敗は会社事務員の不正経理や家事手伝い女の横領と再婚相手の浪費。

〇父亡き後の井上家(波乱と離散)小松を離れ、一関市で土建屋「井上組」を営むがあえなく解散。マスは弟と一関市のラーメン屋に住み込みで働き、ひさしは仙台へ

〇光が丘天使園への入所後、東仙台中学校に編入され、仙台第一高等学校へ進学。ラサール修道会が運営する児童養護施設(現在はラ・サール・ホームと改称)  青葉繁れるの世界とひさしの現実との相違(一高での生活を書いた)映画と読書の日々。小説「デヴィッド・コパフィールド」との出会い。

〇ラ・サールホームは天国。人生を象徴する光景を三つ挙げよと言われたら、常にラ・サールホームを一番目に挙げると井上ひさしは言っている。

〇上智大学へ進学1953(諸和28年)上智大学文学部ドイツ文学科に入学。慣れない東京での生活/大学の神父と天使園の修道士との違い/吃音と脅迫神経症に悩む。

〇休学、釜石での生活。様々な仕事をする(母の焼き鳥屋手伝い/図書館の書籍整理手伝い/港の船舶代理店手伝い/衣類行商助手/国立釜石療養所事務屋)この間、花石物語を執筆。

〇上智大学への復学。浅草六区のストリップ劇場「フランス座」でアルバイト、進行係として舞台の基礎を学ぶ、住み込みの倉庫番をしながらラジオドラマの懸賞台本に応募、  次第に仕事の依頼が来るようになる。「四十一番の少年」「青葉繁れる」「花石物語」「本の運命」など

〇放送作家として出発。1960(昭和35年)卒業後東京放送やNHKラジオ第一などの放送作家の仕事を手掛ける。  1964(昭和39年)NHK総合TVの人形劇「ひょっこりひょうたん島」の脚本を共同執筆。

〇講演の纏めとして、井上ひさしの足跡とその事柄を挙げて締めくくられました。  

1.浅草の大衆芸能(浅草フランス座 1956~)  

2.放送作家(NHK学校放送の台本等1958~/NHK総合人形劇「ひょっこりひょうたん島」1964~1969  

3.戯曲作家(「日本人のへそ」1969年/「十一匹の猫」1971年第六回斎田喬戯曲賞/「道元の冒険」1972年第十七回岸田國士戯曲賞/芸術選奨新人賞/その後「しみじみ日本乃木大将」「頭痛肩こり樋口一葉」「父と暮らせば」「紙屋町さくらホテル」など数多くの戯曲を執筆  

4.小説家 (「モッキンポット師の後始末」1971年文芸誌『小説現代』デビュ-/「手鎖心中」1972年第67回直木賞/「吉里吉里人」日本SF大賞、読売文学賞小説部門   

その後「下駄の上の蝉」「青葉繁れる」「東京セブンローズ」「東慶寺花だより」など多くの小説を執筆し小説と戯曲の両分野の第一線で活躍し続けた。

〇同年代の小説家に 野坂昭如(1930年生) 五木寛之(1932年生) 大江健三郎(1935年生)がいる。

2009年5月に吉里吉里園の展示コーナーに井上ひさし初代館長が来訪された。


 本日の出席者は 478 名でした。