1/7 仙台藩のキリシタン
本日は、仙台白百合女子大学 カトリック研究所の客員研究員 高橋陽子先生から、「仙台藩のキリシタン」と題して昭和26年のキリシタン報道を読み解いていただきました。
講師紹介

昭和41年4月 仙台白百合学園中・高等学校 教諭
平成15年4月 同上 講師
平成24年4月 仙台白百合女子大学 カトリック研究所
令和 7年12月 現在 同上
はじめに
1549年フランシスコ・ザビエルの鹿児島到着以降、キリシタン研究は、西日本が中心として植え付けられてしまい、東北のキリシタンへの意識はより薄れてしまったと私は考えています。2018年「長崎・天草地方」が世界遺産に登録され、改めて「キリシタン」が耳目を集めることとなりました。ここで、西日本地域と同じようにキリシタンとしての歴史を担った東北のキリシタンについて、今日は、昭和26年に全国紙に大きく報道されました仙台藩のキリシタンについて、新聞の主な見出しから読み解き、東北のキリシタンの存在の史実に迫りたいと思います。
ご存知ですか?
〇石川県七尾市 本行寺(高山右近が隠れて、キリシタン普及に努めた)
〇 山形県東根市 龍泉寺(床下に赤子のキリストを抱いたマリア観音像がありました。
〇昭和26年2月の新聞 朝日新聞 河北新報 読売新聞
〇歴史の道
1639~1640(寛永16,17)年と1716~1736(享保年間)に合計308名のキリシタンが処刑されました。
「大籠キリシタン殉教公園」内の「歴史の道」の300余段の階段を登ると、「クルス館」と「鐘楼」があります。
途中には、ローマ教皇、白柳枢機卿、仙台教区佐藤司教、遠藤周作氏、加賀乙彦氏、田中澄江氏、イエズス会司祭から寄せられた碑文を見ることができます。
殉教祭
「日本切支丹宗門史」(パジェス著)に克明に記されている広瀬川での殉教の様を神父様はミサの中で読み上げます。
畳屋丁教会報「むぎっぷ」『1954(昭和29年2月28日発行)』によると、
(1)1924(大正13年)殉教後300年を記念して殉教祭が行われました。仙台殉教者の記念日、2月18日午後2時に広瀬川河畔で【殉教者を偲ぶ集まり】があり、広瀬川大橋の下で冷たい川風を受けて行われました。在仙のの聖職者、修道者、信者130人が集まりました。
(2)「仙台教区事務所だより」(第30号 昭和55年4月1日刊)によると恒例の「仙台広瀬川殉教祭」が四旬節第1主日の2月24日、仙塩地区教会代表者会議の主催で行われた。午後1時、元寺小路教会前に150名の信徒が集合、短い祈りの後パトカー先導の元に、横断幕を持った子供たちを先頭に教会前から広瀬通り、一番町を横切り西公園前から殉教碑に向かうコースの約1時間を、ロザリオの祈りと聖歌を交互に歌いながら行進しました。
(3)現在のように毎年2月18日に近い期日に殉教祭が定期的に実施されるようになったのは、戦後の混乱期を経て昭和25年以降になります。
- 廣瀬の流れ朱に
- 広瀬川大橋下
- 製鉄とキリシタン殉教の里
殉教碑の設置
(1)条件
殉教場所とは離れていましたが、仙台市の公園敷地(大橋脇)に設置する事を元寺小路教会の人々は苦慮しながら選定しました。
(2)経過
昭和41年から事業活動開始。
昭和44年「仙台キリシタン殉教記念碑建設委員会」発足。
昭和49年建立。(広瀬川殉350年祭を目標に)
昭和46年9月12日「仙台キリシタン殉教碑」の除幕式。
銅像の製作者は、深沢守三神父、広瀬川大橋 北東阿元 西公園内

広瀬川殉教碑
東北に滞在した宣教師
慶長16年(1611年)頃から東北に入ったと考えられる宣教師はフランシスコ会のデイゴ・デ・ラ・クルス神父、デイゴ・サンフランシスコ神父でイエズス会ジェロニモ・デ・アンジュリエス神父、マテオ・アダミ神父、ジョアン・バプチスタ・ポーロ神父などがコンフェリアといわれる信心講を組織してグループで行動していたキリシタンたちを勇気づけるため、各藩領を巡回していたと考えられる。
フランシスコ・バラヤス神父(日本名 孫右衛門)は最も長く20年間に及ぶ東北滞在の間、各地を精力的に布教して回わりました。
カルヴァリオ神父が広瀬川で殉教したのは元和9年(1624年)のことでした。
仙台藩へのキリシタン伝播
仙台藩へのキリスト教伝播は次の三説に分かれています
(1)イエズス会史によれば、キリシタン大名 蒲生氏郷が会津に配置されたことにありました。
氏郷はキリシタン大名の高山右近の勧めで25歳のとき、天正13年(1585年)に洗礼を受けました。
表立った布教はしなくても、信者が増える環境でした。
(2) 慶長16年(1611年)キリスト教の禁止令が出されている中、伊達政宗がフランシスコ会のルイス・ソテロを仙台に招き入れてキリスト教布教を許可したことです。
(3) 永禄 2年(1559年)製鉄技術を持った布留大八郎、小八郎兄弟が備前岡山から追波川(現北上川)河口に着き、河口付近でたたら製鉄を行いました。
兄弟はその後北上川を遡上し、大籠に入って製鉄業に従事しながらキリスト教を広めました。
おわりに
「みちのく切支丹」の著者 只野淳の先祖、切支丹 只野利右衛門は元和8年(1622年)12月転宗の勧めに耳をかさず、広瀬川の刑場で首を刎ねられました。
翌年には、カルヴァリオ神父らが水責めにより殉教しました。
明治になり禁制が解かれるまで殉教者の墓参りは人目を憚りひそかに行われました。
戦後の都市計画により墓地を郊外へ移築することになって、利右衛門の墓を発掘し2mほど掘り下げた所に腐った木箱と木炭が散らばり遺骨はバラバラに崩れていたが腐食しているものの、形をとどめているロザリオと手鏡、小さな茶碗がありました。
360年もの間、口碑だけで伝えられてきた殉教の事実が、発掘された一本のロザリオによって改めて確認された一瞬でした。
この只野家の遺品は、米川教会に収められ殉教の重みを今に伝えています。
史徒三万人、当時仙台領に三万人の帰依者がいた。信者はヤマ(鉱山)、渋民鉱山(現在は湯田ダム)や院内銀山などに逃げました。
殉教300年後の大正13年(1924年)に殉教祭が執り行われた。郷土史研究の先駆者 阿刀田令三氏は、昭和5年「仙台郷土史会」を立ち上げ、今も続いています。
歴史は糾える縄の如し」といいますが今見る歴史の裏にも見えてない歴史があり、裏側を見ることに意味があるように思います。
本日の出席者は 548名 でした。




